Yuri & Isao


LAD MUSICIANの血のように赤い服を見て、金子功さんを思い出した。→see 2006/07/08


僕が最初に、そして最も、影響をうけたお洋服のデザイナーは、元PINK HOUSE金子功さんだ。学生時代は、雑誌から金子さんの写真を切り抜いて持って歩いていたほど。当時はPINK HOUSE全盛期で、DCブランド別の店舗面積当りの売上げNo.1を記録したりしていた。学園祭シーズンともなると、女の子は皆、PINK HOUSEのスタジャンを着ていたのではないかというぐらいの勢い。


僕がアイビーな恰好に辟易としていたところに、クロワッサンで金子さんの記事を見た。「クロワッサンの店」とのコラボで、金子功さんが初めて男物の服をつくるという企画。第一弾として赤いギンガムチェックボタンダウンシャツを出すという。PINK HOUSEの男性スタッフがモデルとして、そのシャツを着て誌面に登場していた。パンツは1サイズ大きめのLIVE'S501(当時は全て赤耳)をベルトなしで、足元は裾を2ロールアップして、RED WINGの黒のポストマンシューズ。一見アイビーなアイテムばかりなのに、パターンやサイジングでぜんぜん違う雰囲気になのに、ガーンと衝撃を受けた。まだ当時の僕は、コムデ・ギャルソンやY'Sは、モード過ぎて、足を踏み込めないでいたが、これなら、すんなり入っていけるぞという喜びがあった。もちろん、発売予定日当日にクロワッサンの店京都店@阪急百貨店に買いに行きましたよ。値段は7〜8千円ぐらいだったと思う。でも、きちんと作ってあって、金子さんらしい優しいディテール満載。エリ芯なし・前立てなしで、ボタンダウンなんだけど、オープンカラー風になってたりする。
実物を見て、赤の色がものすごく気に入った。トラッドショップのギンガムチェックシャツのような、子供っぽい甘い赤ではなくて、少し落ち着いた絶妙な赤。コットンのギンガムチェックに、こんな大人の赤が使ってあるが嬉しかった。このシャツは今でも、クローゼットにいつでも出せるように入れてある。


で、それから金子功さんの情報を集め始めた。ネットなんてない頃だから、まずは女性誌から当たった。装苑*1金子功さんが登場していたので、金子さんの出ている号を買いあさった。ちっちゃく出ている金子さんの写真を手がかりに、彼と同じ恰好をしようとがんばった。頭は思いっきり刈上げ、もう頭の横と後ろは、シェーバーで刈ってもらって青々とさせた。パンツはいつも501をベルトなしで腰履き。靴は、当時の僕にはRED WINGは高くて手が出なかったので、セダークレストのラバーソール風プレーントゥで代用。(時計はロレックスのコンビだったので、さすがに当時は手が出なかった)なんちゃって、金子功の出来上がりだ。
秋が深まって、上着が欲しくなる。金子さんがPINK HOUSEのLサイズを着ていると聞いて、PINK HOUSEへ乱入。カーキのMA-1を買った。装苑1月号に金子さんが、Tシャツにジーンズの上に、自社MA-1を羽織って、ギンガムチェックのマフラーだけ前で結んでいる写真を見つけて、さっそく真似をした。その冬は、どんなに寒くても、そのカッコばっかりで通した。今になって考えると、金子さんの写真がとられたのは10月頃のはずなのに。よく京都の底冷えに抵抗できたと思う。その冬以来、寒さに強くなったょ、ほんと。


その写真を撮った当時、金子功さんは42歳。二十歳だった僕から考えると、当時、40代の男性が赤いギンガムチェックとか着てるなんで、信じられなかった。まだ、そんな時代だった。そのとき、自分も42歳になっても赤い服を着ていられるような大人になろうと心に決めたのであった。
そして、今、僕自身が42歳になってしまった。なってみると42歳なんて、やっと大人になってきたかなってぐらいで、ぜんぜん子供のままだ。赤い服どころか、ピンクの服だって平気で着れる。当時決意したことで実現できたのは、それくらいかも(笑)こんな40代になれたのは、半分は自分のキャラづくりで、もう半分は時代が変わってくれたせい。
気が付いたら、金子さん同様、背の高いローマ人と結婚*2して、渋谷に住んで、これまた金子さんご夫婦同様、一男子を授かって、週末には家族で蕎麦食いにいったりしてる。でも、形だけの金子功フォロアーだったな。僕は仕事で何をクリエイトできたというのだろう。


南平台にデッカイ本社をぶっ建てるまでになったPINK HOUSEを金子さんは、1990年に自分の名前を関したブランドを興して、1994年にはPINK HOUSEから離脱。サザエさんのように自分の家族の服を自分で縫っているのが楽しいって感じの金子さんらしい選択だなぁと思った*3
僕の方は、1985年にPINK HOUSEの男子服カール・ヘルムができたら、急速に心が萎えてしまった。カール・ヘルムは初年度にオレンジ色の靴下1足買っただけだ。気持ちが離れたのは、金子さんが「古き良き懐かしさ」にこだわるあまり、時計が止まってしまった感じがしたからだろう。
このエントリーを書くにあたって、KANKO ISAOのサイトを初めて見た。そのブランド・コンセプトの文末に「永遠に変わることのない、優しい、懐かしい服を創り続けます。」と書いてあるのを見て、あぁ、僕は金子さんとは元々向きが逆だったんだなぁと実感した。僕は、永遠なモノ、絶対なコトがあると信じていない。永遠なのは「変わることなく変わり続ける」ことだけだと思う。変わらないという妄想に囚われたくはない。僕にとってお洋服は、現実の今、この世の中を舞台に生きている物語を演じるのに必要な衣装だと思う。その上、演じる役も物語もどんどん変わっていくから、ずっと面白がっていられるんだろう。「昔は確かによかったけど、今はもっと面白い」って思ったまま死にたいな。
金子さんのお店からは、足は遠のいてしまったけど、65歳を過ぎても好きなことで稼ぎ続けられていることに敬意を表したい。何かをつくるとい点では、僕はすっかり中断してしまっている。なんとか稼いではいるが、現役という実感はない*4。生涯現役って点では、金子さんはデザイナーというより職人さんに近い人だったのかな。


追記:
「KANKO ISAO」でググってて、とってもワンダーホーなサイトを発見!もしかしたら、僕もこーなってたかもしれんなぁー。アプローチのオタク加減があたしと似てる。アーカイブすご過ぎ!

*1:ちょうど鷲尾いさ子さんがモデルをしていた。まだ高校生で新潟から週末撮影に東京へ通っていた頃。

*2:金子功さんの奥様は、アンアン創生期の看板モデルの立川ユリさん。ドイツ人とのハーフで、インゲ・ボルグは奥様のドイツ名。金子さんとは身長の差もあったけど、年の差10歳ぐらいあったと思う。

*3:と思ってたら、今全国に67店舗へ増えてるのね。げっ。

*4:思うに、今も何かをつくってるという実感の不足を、買物やブログで埋めているだけなのかもしれないな。