taken or given

歳月不待人、三年経一瞬


以下、3年前の正月に考えてたこと。

                                                                  1. +


選択肢は与えられるものでなく、獲得するもの


20年前は、選択肢は誰かから与えられるものじゃなくて、自分で獲得するもんだった。
買物のレベルでも、待っていたら選ぶどころか、何も得られなかった。今は、モノにいたっては、メーカーやお店が、これでもかっってぐらい選択肢を用意してくれる。



「顧客が多様化」なんてこと、まにうけて追従してると失敗するぞ。
顧客は多様化もしてないし、個性化もしてない。いままで少ない選択肢しかなかったから、それを買っていただけ。今は、それぞれ自分の事情にあわせて、選べるようになったから、別々のモノを買っているように見えるだけ。みんな選ぶとき、自分らしいモノを選ぼうとか、個性的なモノにしようとか、考えているようには見えない。どうやったら、みんなと同じモノを買えるか、みんなが欲しいといっているものを買えるか、に一生懸命に見える。服でいえば、みんなと同じカッコがしたいんであって、人とカブるのは多少イヤだったとしても、だれもしてないカッコで浮いてしまいたいワケじゃない。


このときの「みんな」ってのがクセ者だな。
まちがっても一般大衆のことじゃない。この「みんな」には自分がまだ含まれていなかったりする。これから自分がその仲間にいれてもらいたい人たちのことを「みんな」って、まるでもう仲間かのように言ってるんじゃないかな。
自分でも、服を買いにいくとき、考えるのは「自分らしい」かっこなんて、はなから頭にないもんな。あんな人みたいなカッコしたいとか、カッコいいといわれてる人と同じカッコがしたいとか、現実の自分はとりあえず棚上げして、妄想してしまう。若いころは、妄想のまま突っ走ってたりしたんだけど、さすがに近頃はもう少し自分の実情というか、足元を見るようにはなったかも。とは言っても、金が足りないとか、背が足りないとか、肌のはりが足りないとか、欠点をどう補うかってところに多少努力するようになっただけ。


「自分の個性を活かして」なんてのは、雑誌の煽りに書いてある文句に過ぎない。

                                                                          1. +

で、三年後の現状を見てみると、さすがに「個性」云々というフレーズは目にしなくなったけど、同時に「多様性」も狭められてる感じがする。
いずこもマーケティングが良く効いているというか、「あなたには、コレです!」的な薦め方をするところが増えてる。どこ行っても、ここはアマゾンか、って感じ。買う方も、だんだんそれに慣らされてきてるんぢゃないかな。
楽っちゃ楽、だけど今の自分の延長線上にあるものしか、選べなくなる。知らない間に選択幅が狭められていて、現状からのブレイク・スルーはあり得ない。
お洋服の店でも、若い販売員のヒトって、客がそのとき着てる服しかみてない。中身の人間の方もよく見てから、薦めた方がいいのにな、と思うこともしばしば。逆に、まったくこっちの予想外の服を薦めてくれて、試着してみると、めちゃくちゃ自分に似合ってたりすると、すごく嬉しい。絶対自分では気がつかないポイントを突かれると「さすが」と思ってしまう。
そーゆーときは、たいてい即買いしちゃうんだけどな。