real cloths or costume plays

エヴァンゲリヲン鑑賞用Tシャツ



日々、サラリーマンのコスプレをしている者として、無言で通り過ぎれないので、おくればせながら言及、、、


脱オタクファッションの限界」を読んで by Elastic
http://taf5686.269g.net/article/4619172.html
によると、

「ライフスタイルが宿っていないファッションは洒落者(ロールモデル)のコスプレでしかない」という点にも異論がありません。

とのこと。
でも、コスプレでもいいんぢゃない?
ライフスタイルなんか宿らなくていいんぢゃない?


脱オタを図るっつーよりも、見た目をなんとかして、バカにされねぇよぅにすりゃぁ、イィってんだったら、コスプレとしてのファッションをオタクらしぃアティテュードで*1、追求するってのも、ひとつの方法、それもオタクの方にとっては、むしろ近道ぢゃねぇかなと、思うワケ。



■ファッションは、ますますコスプレ化してきてなぃかぃ?


今世紀に入って、モード界の方は、文字通り「costume play」なコレクションが増えてきてねぇ?
ロックミュージシャンへのトリビュート・コレクションみたいなのは、いくつもあったけど、一般人が原宿で着れば、ただのミュージシャンのコスプレにしか見えんゾ。でも、みんな結局そっちの方向に走ったょね。(いまだに走り続けてる気もするけど)
この春夏、VERONIQUE BRANQUINHOは、「マイアミ」をイメージしてコレクションを発表。もう一目見て、80年代を代表する米国刑事ドラマ「マイアミ・バイス」(1984-1989)を思い出してしまった。色調まで、よく雰囲気をつかんでたナ。
この秋冬でも、ALEXANDER McQUEENは「スーパーヒーロー」をテーマにメンズ・コレクションを発表。昔のSF映画から、アメコミ風ダークヒーローまで、ズラやマスクまで使って、、、できれば、手に何か武器でも持ってほしかったぐらい。
TOKYOでは、FACTOTUMのテーマが「カフカ」(→こちら)。在りし日のカフカのコスプレ・オンパレード。まるでカフカ家のアルバムを見せてもらってる感じ。戦前の文学青年なら、このまま着てほしぃけど、現実は、村上春樹も読んだことのないヤツが、着るんだろぅナ。



■男子のおしゃれは、始めから一種のコスプレなんぢゃ?


男子のおしゃれなんて、モテるヤツ、カッコイィなと思ったヤツ、の真似から入ってくってのが、よくあるパターン。
誰かの「なりきり」で笑われて、「やりすぎ」であきれられ、、、はずかしぃ失敗と後悔を積み上げて、なんとか見られる格好になってくる。みーんな、そぉして大きくなった。。。シミジミ

今回k-d-hideさんがロールモデルに設定したのが栗野宏文氏と藤原ヒロシ氏。これは、どう考えても「脱オタ」というレベルを遥かに超えていますよね。

栗野さんのコスプレ、ヒロシ藤原のコスプレ、いいんぢゃないの?
90年代なんて、まさにそんな感じだもの。当時、あの二人が何着てたか、何を買ったかは、外せない情報だったし。アイテム・セレクトのカリスマ(死語?)の日本代表!
もちろん現在のお二人に追従するのは、一般人には不可能だと思うけど*2、今の男服のベクトルを読み取るぐらいは、できるでしょっ。


コスプレの基本は、対象キャラに没入して、なりきるワケぢゃない?そのオタク必須の能力を活かして、おしゃれなヒトを徹底的にまねるのって、おしゃれになる近道ぢゃねぇかと思う。
伝統工芸なんかの職人技伝承ぢゃぁ、「守・破・離」ってステップがあるぢゃない。「守」ってのは、始め、師匠の技を盗み見ながら、徹底的に真似ること。伝承されている技の基本を忠実にトレースする段階。修行には、欠かせない重要な期間。*3


■「「ライフスタイルを宿した」格好をしたヒトなんて、いるの?


「ライフスタイルを宿した」ファッションだけが、ファッションぢゃねぇというElasticの考え方には賛同。いゃ、それ以上に「ライフスタイルを宿した」って表現に、すげぇ違和感を感じるんだょナ。


一貫性のあるライフスタイルなんて四半世紀前にバラバラになっちゃてるし、ズレなく統合されたアイデンティティなんてもの、前世紀末で胡散霧消。
今は、<自分>がいくつにもの断片になって、拡散しながらも微妙につながったまま、その場、その場の状況に合わせてElastic(可塑的)に生きているって感じぢゃなぃのかな。*4
外見についてだけ簡単に言えば、その場にいるヒト達に分かりやすい(あるいは、受けがイイ)格好を、場面ごとに、とっかえひっかえ衣装変えしながら、演じてるってこと。
そう、仕事のときにきる服(ワークウェア、ビジネススーツ、学校の制服...)も、表層的なモノにすぎねぇってことを、MOSCHINO2006-2007A/Wでシニカルに表現してた。でも、表層的だから、服は楽しいんぢゃなぃ?ってメッセージなのかも。


こうなってくると、今のファッションとしての服は、「舞台衣装」という役割が大きくなってんぢゃなぃ?
「人生は劇場だ」ってシェークスピアが言ったんだっけ?でも、当時のヒト達の言う「世界劇場」ぢゃなくて、今を生きてるヒトにとっては「自分劇場」って言った方が近いかな。
自分が「社会」のいろいろな「シーン(幕)」に合わせて、自分で選ぶ「コスチューム(舞台衣装)」。社会を生きるってのは、日常的なコスチューム・プレイみたいなモンか。。。しかも、一人何役もやらないといけない。
その場、その場の配役には、ちゃんと合わせないとね。主役のときは、目立つ服でもいいけど、脇役のときは、地味に。まして黒子のときは、透明にならないといけない。。。なかなか、世の中を生きていくのは難しぃッゼ!有能なマネジャーがほしぃょ。


今、もし、確固たるライフスタイルを生きているヒトに出会ったとしたら、ものすごく古風に見えるか、カルト的に見えると思う。
華道の家元とか、、、
昔気質の粋な職人さんとか、、、
新興宗教の教祖様とか、、、
真の癒しを求めてヨガ・インストラクターになったヒトとか、、、
GEOTHEを読んでるような「仕事命」な方とか、、、
そんなヒトたちにとって、コスチュームは、もうファッションみたく、移ろい行くものぢゃぁねぇと思うょ。


といっても、
古風で伝統を重んじる世界で生きているヒトが、いつもソレ「らしぃ」カッコをしてるワケぢゃねぇしナ。正蔵師匠だって、いつも羽織に着物ぢゃない。デートのときは、金にモノ言わしてハイ・ブランドでがっちり固めてるとか、いないとか。。。


Totus mundus agit histrionem.

*1:オタクってのは、偏愛するジャンルで定義されるんぢゃなくて、偏愛の仕方というか、対象物へのアプローチの「態度(アティテュード)」だと、ワタシは定義してます。

*2:まず、お洋服にかけられる可処分所得や資産がケタ違い。HFさんの年収は不明だけど、栗野さんの年収は一部上場企業常務ってことを勘案すると、数千万円オーダー。保有自社株の時価総額は約45億円。ついでにいえば、栗野さんのご実家は、お医者様の医師一族。相続した資産もそれなりに。

*3:そうして見様見真似を重ねて、ある域まで来ると、これ以上、師匠には近づけねぇゼって状態になる。近づけない「距離」は必ずある。その距離の半分以上は師匠が年季を重ねて身に着けた技そのもの。でも残りの部分は、弟子の己が特質。それをヒトは「個性」とも「譲れない部分」とも言う。そのとき弟子は、自分の真似してきただけのモノを一旦、壊して、自分自身と向き合う。それが、「破」の段階。で、アレコレやってみて、やがてもう一度、伝統の基本に戻ってくる時期がくる。でも「守」の時代とは異なり、伝承や約束に縛られず、自分らしい工夫や、現在の技術や、時代の空気をとりこみながら新たな技を加えつつも、それでも「伝統」の枠は踏み出していないという「離」の段階に到達する。。。究極のオタ道が目指すのも、守・破・離の「離」の域への到達なんぢゃ?オタクでありながらも、オタクに縛られず、オタクの「業」から離れながらも、やはりオタクとして生きる姿は求道者にこそ相応しぃ。とか。

*4:でも、乖離や多重人格みたいに、バラバラになった自分が、互いに記憶も共有してなかったり、お互いを知らないってほど、分裂してるワケぢゃない。記憶が異なるぐらい分裂しちゃうと、もう日常生活で困るわ、人間関係も崩壊するわで、社会生活できなくなる。