China or Sinae


「中国の人材の厚さを日本人は知らない。」


と私の祖父は戦前、言っていたそうだ。祖父は私が生まれる何年も前に他界していて、直接話したことはない。これまた他界した私の母から聞いた話だ。
こういうネタをこの時季書くのは、リスキーなのはわかってるけど、右とか左とか、20世紀に作られた物差しで、オレを計るんぢゃねぇーっ!と断っておこう。これは個人の問題ですから自分で判断して、ってことで。


うちのじいさん、っつーのは文系のキテレツみたいなヒトだったらしい。一応、当初は教育者だったようで、明治〜大正にかけて、いくつかの教育機関設立に関与してたが、しばらくすると学長や理事長と衝突して、ぷぃっとすぐ辞めてしまうわ、次々辞めてしまうわ、だったらしい。後半生は、ほとんど、ばあさんの資産で食っていた。入り婿(婿養子)だったのに!それどころか、妻子を抱えて、東京、京都、満州と大学・大学院を3つぐらいは行ったようだ。これで苦学しながら妻子を養ってりゃー、尊敬感涙もんだが、もちろん学費も生活費も、ばあさんの実家持ち(苦笑)
で、大学での専攻は、最初は教育学だったみたいだけど、後半は「支那哲学」が専門だったようだ。今でいうと中国哲学や東洋哲学のあたりかな。じいさんは、漢文はもちろん読めたが、中国語はしゃべれなかったそうだ。明治・大正の頃だから、当然、西洋の哲学との比較が不可欠だったので、ラテン語ギリシャ語、ドイツ語、英語も読むことはできたらしい。単に哲学書は原書で読むしかない時代だったっつーことなんだろう。


さて、前説が長かったけど、この辺で羽織をぬぎぬぎ、、、
時代は明治末期。たぶんじいさんが、東京で学校設立に係わっていた頃か、そこを辞めて某大学に通っていた頃の話。じいさん一家は東京は都の西北辺りに住んでいた。
じいさんは、職業柄というか、文系の極みというか、文字通りの本の蟲だった*1。毎日のように神田神保町を歩き回っていたそうだ。想像するに、大学にいる時間より、古本屋にいる時間の方が長かっただろう*2
そんなある日、漢文の本を買うべく、中国書籍を扱う馴染みの店を尋ねたじいさんは、店番と若い客が、なにやらもめているところにでくわす。若い客は、どうやら中国人らしい。言葉が通じず難渋している模様。じいさんは、筆談ならなんとか通じるだろうと、店員と客の間に割ってはいった。どーいうトラブルだったかはいまでは定かではないが、じいさんの漢文で、その場は丸く収まったそうだ。若い客は中国(当時は中華民国)から来たばかりの留学生*3で、当時の日本人は中国人にはいろんな意味で冷たく、じいさんのお節介は、彼が日本で初めて受けた日本人からの親切だったらしい。これをきっかけに、その留学生とじいさんはしばらく交流が続いたそうだ。その後留学生は、無事大学を卒業し母国に戻った。


それから何年かして、ある日、中国からじいさんに手紙が届く。
差出人は、あの中国へ戻った留学生。中国の雲南省の奥地、大理(ターリー)に中学校*4を新設したいので、力を貸してもらえないかという内容。要するに、雲南省の学校まで、教師として来てほしいということだった。その留学生、当時、中国から東京に留学してくるなんざぁー、地元有力者の一族か、エリートだったのかもしれない。
中国に行くだけでも、船しかない大変な時代の話。それでも、じいさんは、子供もまだ小さいわ、婿養子だわ、といった諸事情も無視して、すぐに中国に赴任する話をOKしたらしい。ヒトに頼まれるとイヤとはいえないタイプね。じいさんは、妻子を残して、中国へ単身赴任することになった。
さらに当時、中国沿岸部から内陸の大理にはまだ鉄道すらなかった。かといって馬車で行くには、急峻な地形。人が担ぐカゴ(!)に乗って20日程かけて大理まで行ったそうだ。漢文には絶大な自信を持っていたじいさん、旅行は筆談でなんとかなるわ、なんて高をくくっていたらしいが、同じ漢字でも、中国と日本で微妙に意味が違うので苦労したそうだ。


大理での中学校設立が軌道に乗り、じいさんは帰国。帰国後、じいさんの中国観は、漢文だけで研究していたときとは大きく変わったらしい。
「中国は、人材の層が厚い。大理のような山奥でも、東京の学生より優秀な生徒が沢山集まってきた。中国全土で考えるとどれだけ優秀な人材が埋もれていることか。」と娘にも話していた。
大理での学校勤めから中国との縁が広がり、その後、じいさんは台北ハルビン*5でも教鞭をとった。


日中戦争が始まった頃、じいさんは、娘に「日本軍は中国に負けるだろう。」と自分の予測を話していたそうだ。もちろん、予測の根拠は中国の人材の豊富さだ。単に人の数が圧倒的に多いということではない。仮にリーダーの首ととったとしても、より優れたリーダーがまた現れてくる。それが中国の歴史で繰り返されてきたことをじいさんは、よく知っていた。そして日本がいくら海側から攻め入って、臨海部都市を壊滅させたとしても、中国奥地から新たな人材や物資が供給され得ることを、じいさんは実感していたんだろう。
今の中国と日本の経済的な関係や、臨海部と内陸部の格差を見たら、じいさんは何と言ったんだろうな。


僕は、中国には、まだ行ったことがない。いずれは行かねばなるまい。縁があれば*6きっと行くことになるだろう。もちろん僕は家族連れていくけどね。

*1:亡くなったときには、書斎と書庫に4万冊の蔵書があって、処分するために古本屋がトラックで乗り付けたという伝説も。

*2:この辺の行動パターンは、DNAに書き込まれている気がする。

*3:たぶん東大生だったと聞いたと思う。

*4:旧制中学校なので、今の高校か、高専ぐらい。

*5:ハルビンはもともとロシア領なので、ロシア人も多く住んでいた。もしろん、その中にはユダヤ系の人も混じっていたわけ。娘へのお土産に、ハルビンおもちゃ屋シュタイフのテディーベアを買ったときに...(以下「エッサイの梢・下巻」に続く)

*6:いや、世代を超えた縁はあるはず。あとはキッカケだな。フジTVにお願いするか?