exodus from melancholia and ego

去年までの10年間、ずーーーっと私は鬱病だったって事実に最近気が付いた。
はじめて医者に足を運んだのはいつだったかなー、思い出せねーなと、ふと思って、調べてみたら、なんと1994年だったんだよねー。
この間、超レトロなお薬に始まって、プロザックその他のSSRISNRIまで、一通りの薬を飲んだ。SSRIに切り替えたのは6年前。すごく症状は楽になったが、それだけでは病気は克服できなかった。その後、休職も合計1年間ぐらいしている。
結局、治るきっかけとなったのは、結婚して生活を立て直し、有能なカウンセラーに通いだしたことだった。仕事量は抑えつつ、しっかり1年間、時間と金をかけたことがよかったんだと思う。中途半端にやっていたらダメだっただろう。


この10年でわかったことは、ウツを治す決め手は、ウツの原因を見つけることなんかじゃないということだ。

ウツを治すために、自分を見つめなおすことは大切なことだとは思うが、それが目的になってしまったら一向によくならない。カウンセリング中、ついつい自分の過去ばかり、頭が行ってしまうのはよくある*1。ウツになりやすい人って、もともと、自分にとらわれてるタイプだから、よけいにそっちに行くのだろう。トラウマとなった過去の出来事や生い立ちを思い出す必要があるのは、これからの自分に役に立てるためであって、ウツの原因を探すためじゃない。ヘタに過去の原因だけわかったりすると、いまさら過去はどうしようもないという現実に叩きのめされて、よけいヘコんでしまう可能性だってある。遺伝的にウツ傾向があったら、いったいどうせいちゅーんじゃっ。


ウツ病からの脱出の決め手は、自分と人、自分と世間との関係を新しく作り直すことだと思う。人との関わり方が今までと変わってきて、ウツもだんだん良くなっていくんだと思う。
自分を見直すっていって、いくら自分の心の中を見つめても、自分は変わらない。自分のとらえ方が変わらないんだから、いままでわからなかった自分が見えてきたりしない。自分をとらえ直して、自分を見直したいなら、人と関わっていかないと何も変わらないと思う。精神修養だといって一人滝に打たれて修行しても、無駄だろう。座禅修行は、セロトニン分泌を促進するそうだが、座禅しつつ「自分って何?」なんて考えていたら、元の木阿弥だろう。
でも、ウツ真っ只中にいるときに、こっちから積極的に他人に関わっていこうなんて、とてもできるもんじゃないよな。だから、身近でしっかりと自分に関わってくれる人を見つけることが大切だと思う。自分にちゃんとコミットしてくれる人が見つかったら、出口は近いぞ。
その人には、大きな負担をかけてしまうかもしれないし、めちゃくちゃ酷いことを言ってしまうかもしれないが、それは治って元気になれば、いくらでも恩返しできる。なんといっても自分が良くなることが、その人への最大のお礼だと思う。


おかげさまで、今では通院も薬もなしで生活している。もちろん、ときに落ち込んで寝込むこともあるけど、何かいやなことがあれば、誰だって落ち込むんだからいいじゃんと思っている。落ち込み続けなけりゃいいわけ。むしろ、プロザック飲んでたときみたいに、何事が起こっても、どーんと落ち着いているってほうが、異常な精神状態という感じがする。それって、単に鈍感っつーか、感情っつーものがあるの?って気もする。この先、またウツ状態に戻ることもあると思っているが、そのときはまたしっかり休んで、また復活すりゃいいやと、今では思えるようになった。


追記:
ウツ病からの脱出ってことで書いたけど、これって、ウツを「人格障害」や「神経症」に書きかえても同じだと思うんだけどな。あと、重度のオタクにもね。

*1:あるカウンセラーが言っていたが、カウンセリング室に入って席に座るなり、問わず語りに自分の生い立ちを切々と語る患者さんがよくいるらしい。鬱病とかの患者さんて生真面目で勉強熱心だったりするから、事前にいろんな心理療法の本とか読んじゃってて、カウンセリングでは自分の生い立ちをさかのぼって語るものだと思い込んでるんじゃないかなぁ。最近では、ウツなんだから、過去にトラウマがないといけないと思い込んでいるような患者さんもいるらしい。10年前の常識から行くと、そんなことトラウマにならないよというようなことをトラウマだと訴えるケースも増えているとか。つまり、トラウマが何か、トラウマを解消できるかよりも、ある出来事を簡単にトラウマと感じてしまう感覚の方をなんとかしないと治らないような人が増えているようだ。最近のカウンセリング関係の本でも、過去のトラウマをほじくりだすことはあまり重視しないやり方が増えてきたと思う。