tattoo vs. macula

自分の顔が許せない! (平凡社新書)
『自分の顔が許せない!』
顔面改造*1エッセイスト中村うさぎと顔面不全*2ジャーナリスト石川政之による「顔面・身体改造」対談本。


「アザ」を「刺青」と読み替えると、いろいろ判ったりして楽しめた。我々墨肌者=柄者は、アクションは中村うさぎ側だけど、ポジションは石川側に近いということなど。柄者としては日ごろ感じてるあたりを「上手いこと言うな〜」と感心するところもあったが、無地の人が読んでもピンと来ない可能性大。整形したいぐらい顔にコンプレックスがあるとか、五体のバランスを欠くとか、多少イビツな肉体の人じゃないと読んでも面白くないかも。
整形vs.アザのガチンコ勝負という帯びのあおりには偽り有りというAmazon書評には納得。先天性疾患が相手では、彼女の京風ツッコミも鈍ってしまったか。二人がお互い「逸脱した身体」を持つ者として、早々と握手して「仲間、仲間、おともだち〜♪」みたいな感じになってしまったのがいかん!7ラウンドまではファイティングポーズを崩さないでほしかったなー。
二人は逸脱した身体を共有しているなんて言っているが、実は共有しているのは「逸脱した精神」の方じゃないか。中村うさぎは女子高という「微細な差異で」優劣を競う逸脱した環境で育ったために、精神が歪んでしまったという。石川も生まれつきの逸脱した肉体によって「自意識過剰」と「視野狭窄」の思春期を送っていた。
逸脱した精神を抱えた二人が、世間と渡り合うために選んだ方法は、全く違う。中村は「逸脱した精神に身体をあわせる」ため身体装飾から身体改造へ走り、石川は逸脱した精神を身体にあわせるため「アザを言語化」していった。その結果、二人とも自分の肉体が自分(だけ)のものでなくなったように感じている。意識を肉体化した中村と、肉体を意識化した石川、二人が行き着いたのは自らの「身体の社会化・商品化」。
私自身、自分だけの身体って感じは、以前より薄くなったかもしれない。墨肌は、彫師さんと自分の共同制作・共有財産だということもある。でも見ず知らずの人から、しかも海外で、「この腕は見たことある」なんて言われたときは、墨肌だけが一人歩きしてるような気分だった。


この本の中で、逸脱した自意識の安定のために身体をいじるんだと石井は指摘しているんだけど、墨肌になる人も少なからずそうなのかもしれない。社会的に大きなリスクがあることは知りながら、あえて刺青しようという背景には、そのリスクを上回る大きな不安を心に抱えていることがあるのかも。
古くは、日本では鳶や博徒、海外では船乗りが墨肌者の主役だったが、彼らの生き様は危険や死と隣接していた*3。今の時代は、身体的な危険や死は普段まったく見ずに済むが、社会や人間関係から来る精神的な危険と常に隣り合わせだ。しかも特別な職業に就かなくても、特別な環境に生まれなくても、人間関係の危険は常にある。それは物理的には痛くもないし、血もでないけど、ときに死を呼ぶこともある。そんな時代だから世界的に刺青が増えているのかもと思った。

*1:タカナシクリニックでフェイスリフト

*2:赤アザ:単純性血管腫

*3:社会からドロップアウトした連中だから社会的リスクなんて関係なかったんだと言う人もいるだろうが、ドロップアウト自体が精神的に大きな不安要素だろう。